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葬儀屋社長奮戦記

2011年11月 2日 水曜日

社長経歴

1958年緑と酪農の里に生まれ大学一年生まで地元で育つ.
大学は日大法学部卒業.
その後司法書士試験に挑戦すべく東京法経学院司法書士本科に席を移し勉学に勤しむ。
日々の勉学の傍ら、ある日ふと目にした「正法眼蔵」の一節
「百尺の竿頭、更に一歩進むべし」との一節にふれ俄に稲妻が走り、
丁度銭湯に行こうと身支度をしていたのを幸いに、そのまま下着と5千円ほどの現金をナップサックに入れ、玄関の下駄を突っ掛けてそのまま東京中野のアパートを出た。
さてどこに行こうかとアパートを出てから考える始末だったが、先日読んだ「日本の名僧100人」という本の中で印象に残っていた高尾山葉上しょうじょう阿じゃりに弟子入りすることにした。
高尾山は中央線に沿って歩けばいいと考え歩き出す。
しかし土地感も無く結局迷子になり国立あたりらしいファミレスの駐車場にて休憩してるままに夜をしのぐ。
 この時不思議なことに自宅で就寝中の母の枕元に先年亡くなった曾祖母が夢枕に立ち赤ん坊の姿をした私を指差して、(全ての因縁はこの子にかかって来ている!)とそれはそれは怖い顔で怒鳴るので恐ろしいやら息子が心配やらで生まれて初めて夜中に仏壇に線香を上げたそうだが、ちょうどその時自分自身の夢枕にも曾祖母が立ち怖い顔で何か言っているので、道に迷い疲れてファミレスの駐車場のコンクリートの上で熟睡していた俺は思わず立ち上がり道を急いだ、
中野から吉祥寺に向かって歩いて来たがどうやら高尾山は見当違いらしく、目が覚めてから進路を変更して港北区に足が向いていた、
というのは、地元に禅の名刹「龍澤寺」があることに気がついたからだ。
町田に向かう途中家々から洩れる明かりを眺めながら懐かしさと共にこれから法の灯る家を目指す感激で途中に寄ったおでんの屋台ではにわか道心の「般若心経」を唱えたら
そのオヤジさんは「わかりやすいお経だねー」と言って代金を不要にしてくれた。
なんとなく一期一会の有り難みを感じ、一路箱根の険を目指した。

途中の行程は狐につままれた如く芦ノ湖で朝日を拝み、そこからバスにのって早々に
龍澤寺山門に到着し、直立して満を侍していたのだけは覚えている。
山門には般若大接心の札が架かっていたように覚えている。
とにかく朝からズーとそこに佇んでいたらしい。
途中青大将のツガイが林の根本から這いでて自分の回りを何周か廻ってまた林に消えていったがたいして不思議とも感じずにいたのが今となっては不思議だ。
そういえばひいおばあさんの葬儀の朝自宅で出棺のお経をしていた時に
大きな青大将が縁側からお経をあげている住職の脇をスルスルと祭壇の下に入り込んで
大騒ぎになったが結局あんな大きい青大将は祭壇の下には居なくてみんな狐につままれたように出棺したのを思い出した。
そんなことを思い出しながら一日中山門の前で立ちっぱなしで居たのだが夜の気配がしのびより肌寒さを感じる頃、薄暗い山門の中から一人の坊主がひょいと顔を出した。
その坊主はなんの脈絡もなく開口一番こう言った。
「オイ、首くくるんならそこにいい枝振りの木があるぞ。」と、
とんでもない坊主だ。
自分はとにかく出家して百尺の竿頭の答を知りたいのに自殺志願者等という不名誉な者に間違えられてしまった事に憤りとにかく出家させてくれの一点張りでとうとうその日から寺の住人になることに成功した。
両親がそのことを知るのはいよいよ警察に捜索願いをだそうという二週間後であった。
禅寺の生活は接心中ということで日常会話もママならず、食事も粗末なものであったが当時の自分にはそれでも贅沢に感じたのも事実だった。
季節は初夏の入り口、境内の梅の木の梅の実がボトリと大きな音でびっくりするぐらい静かな
参禅の修行であった。
何日目か突然座禅中に訳がわからないまま嗚咽が漏れ始めたのを皮切りに、声をこらえても
こらえても体中からわんわんと涙があふれて雲水に叱られるも止まらずヒトシキリ、ナクダケナイタラ、付き物が落ちたのか?
すっかり、心身が楽になったのを覚えている。
身元も明かさずに出家できるものと思い両親のことなど思いもしない親不孝ものが野放し状態でいるのを大人の人たちがほおって於くはずも無く、知らないうちに自分の所持品から
身元が明らかになっていたのも露知らず、寺からの連絡を受け父母が老師を訪ねていたのだ。
後日父が老師に「息子が親の事を聞かず困ってます。老師から何とか言ってください。」とつげたのにたいして老師は
「親の言うことさえ聞かないんだ、わしの言うことなんぞ聞くもんか。」と一蹴されたそうだ。
そのときの老師は親のきたことなど言わずに自分を呼んでこういった。
「本当に出家したいのならば、それなりの坊さんの紹介状やらさまざまな手続きがあるので、
一旦山を降り、出直してきなさい。わしがそのときは面倒見てあげるよ。」
一旦山を降りることにしたが、今考えるとそれこそが仏の方便だったのだ。
ナップサックを背負って来たときのまま下駄履きで(もっとも下駄の歯は来たときに磨り減ってしまっていたので、単なる板のぞうりのようだったのだけれど)山を降りていくと、
地元の人たちはご存知のとおり日本大学付近の街道に合流する。
そこでボクが目にしたものは、笑いさざめく天使達・・・にみえた女学生達だった。
年頃のボクはさっきまでの求道心も何処へやら、「この世ってホントにイイもんなんですよねー」とあの映画のひげの解説者の口調で心の中でつぶやいていた。
振り子の理論か?
山を下りたぼくは、父親の不動産会社に就職するも出家未遂ぼけで仕事もせずに毎日遊びほうけていた。
そんな息子は、伯父の経営するペンキ屋にでっちぼうこうに出され出家せずにペンキ屋となり三年を過ごしたのだった。



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2011年11月 1日 火曜日

出家未遂事件その後

毎日、おじさんといとこと一緒にペンキ屋の仕事をしていた。
ペンキ屋は自分の性に合っていたらしく毎日毎日仕事をして、
汗を流し一杯やるのが無上の喜びだった。
労働の喜び、一杯の麦酒の旨さ。焼き鳥の美味しさ。
別にこれ以上何もいらなかった。
独身で日々たいした苦労も無く日雇いのような生活。
出家したとしても托鉢して生活できると本心から考えていたので、
ペンキ屋の生活のほうが楽だった。
毎日毎日その日暮らしで暮らす生活も若さゆえに自由な気分で
謳歌していたのだった。



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2011年10月30日 日曜日

葬儀屋になってから

当社ベルホールの前身である田方葬祭を立ち上げたのが平成3年ですので
葬儀や人生も今年でまる20年になる。
何でこんなに長く続けることが出来たのか?
出家未遂事件から30年・・・
先日葬儀を施行させていただいたお宅で
ある書物をいただいた。
「家に2冊あるので一っ冊お持ち下さい」そこの奥様に差し出された本。
蜜多窟提唱  中川宋渕とある。
目次を開くと開単大接心第1日(昭和57年年6月18日)より(昭和57年6月24日)までの
法話をまとめたものだった。
57年の初夏といえば丁度出家未遂事件を起こした時期
老師の御本のなんと言う巡り会わせか。
そのとき老師は体調が優れずに奥の院にお休みになられていたように覚えている。
首吊り云々のやり取りは中川老師の次の老師さんであったので付記しておく。
中川老師は人格高潔であり孤高の修行者の誉れ高いので誤解のない様・



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2011年10月29日 土曜日

これからの葬儀業界について

葬儀屋として20年やってきましたが、先日東京のセミナーに参加したときこれからの葬儀業界のあり方を根本的に考え直すときがやってきたことを痛切に感じました。
異業種からこの業界に参入して早20年、当時はこの業界に新風を吹き込んでやるぞ!ぐらいの意気込みをもってはじめたことには間違いないが、いつの間にか件数をこなすことに汲々としていたことに気がついた。
そこで今回のブログの用件ですが、葬儀屋さんの今後の仕事は生きている人たちにこそサポートが必要であるとの認識が生まれたのです。
そこで一念発起して1年間にわたって「東京大学市民後見人要請講座」を受講することを決めました。
詳細は追ってご報告いたします。

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2011年10月28日 金曜日

1・ぼくは如何にして葬儀屋になったのか?

1・ぼくは如何にして葬儀屋になったのか?
天皇の崩御により年号も平成に変わり、昭和のバブル景気も影をひそめ、僕のまわりも不景気な話ばかりになってきた頃、某宗教団体の信者で仏壇屋のKさんがある景気のいい話を持ちかけてきた。
「実は今度うちの宗教では坊さんなしで葬式を出さなければならなくなったんだ。」
「お坊さんがいなくって葬式が出せるんですか?」「まあ、これからはそうなるなぁ。だから今回自分が葬儀屋をやろうと思ってるんだが」「そうなんですか、」「それで、あんたも一緒にやらないか?」
「え?僕が葬儀屋をですか?」「そうじゃなくって、あんたは資金だけ用意して顧問にでもなって給料だけ取っててくれればいいんだよ。後は自分が全部やるから、何にもしなくっていいんだ。」
「資金ってどのくらい必要なんですか?」「まあ2・3千万あれば、」「に、2・3千万 ? !」
「まあ、はじめれば1・2年でそのくらい返済できるし、あんたには顧問料として月々100万円ぐらい払えば、あんただって損はないだろう!」
「そ、そんなに葬儀屋って儲かるんですか?!」「いいか、1件100万円の葬式をひと月10件やったらいくらになる?」「いっ、1千万円です」「あんたに100万払うぐらいわけないだろう」
「まあ、うまくいけばそうでしょうけど・・・」
「実はな、客はもういるんだよ。仲間の連中から早くってせっつかれているんだ、だから開業すればその日から仕事が殺到するぐらいだが、今連中をおさえている最中なんだ。」「え?もう客もいるんですか?」
「ああ、あしたにも死にそうな連中がごろごろいるからあんまりのんびりもしてられないんだよ。」
「そうなんですか?」「とにかく、急いでいるんだ。」僕とKさんはこんな会話をとりかわして、ついに会社を作って葬儀業界にうって出ることになった。こうして、筆をとっている今、時間を戻せるならばすべてを白紙に戻したい気分だ。でも、僕は月100万円に眼がくらんでしまったのだ。

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2011年10月27日 木曜日

2・3千万円調達し開店にこぎつけるが・・

2・3千万円調達し開店にこぎつけるが・・
とりあえず会社を設立してスタートすることになった。社員は当時プータローだった義理の弟が、Kさんの月百万円に釣られて社員になった。三千万と簡単にいうがバブルで乞食にも金を貸していた時代はとうに過ぎ、銀行の財布の紐も締まりつつあった頃だ。とりあえず千五百万円は普通の銀行で借りられた。(今考えると随分いい加減な試算表だったが開店資金という前向きな理由と葬儀というなんか儲かりそうといった感じを融資の担当者が持ったのかもしれないが、当然個人の連帯保証に印は付かされたが)
けれど、あと千五百万円はどうしても借りられない、仕方なく当時不動産業を営んでいた父の会社の土地を担保にして、父の友人の李さんに保証人になってもらいようやく北の銀行から借りることができた。北の銀行とは朝鮮銀行のことだ。日本人単独では借りられないので李さんが保証人になってくれた。李さんは高利貸しなので李さんから借りることも考えられたが、「ポクから借りたら、大変なことになるよ。」といって保証人になってくれたのだ。父と李さんはビジネスを超えた付き合いだったのだろう。北の銀行は銀行と言ってもやっぱり特殊で利息はカードローンの会社なみで、人の足元を見て月々30万円もの積み立てを条件にだしてきた。
けれど人間とは浅はかなもので、とにかく借りられただけでその場は満足してしまい後のことなどあまり考えないものだ。とにかく3000万円がそろった。いよいよ、船出だ。
近所の割烹料理屋で開業の宴会のご馳走を前にKさんがいった。「これから、一致団結して会社を盛り立てていこう。お前たちも気を引き締めて頑張るように。」なんて挨拶して、僕と弟は月給100万円に早くも胸をふくらませてその晩は皆、扉の向こうに嵐の大海原が待ち受けていることなど夢にも思わずただ、飲んで、飲んで、酔いつぶれた。

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2011年10月26日 水曜日

3・葬儀屋道具一式届く・・・

3・葬儀屋道具一式届く・・・
3000万円といへば大金だ、けれどKさんに預けた3000万円はアバウトな感覚で消費されていった。
まず、1000万円が消えた。
Kさんつまり社長の借金返済に充てられたのだ。K社長があれだけ融資の実行を急がせたわけは自分が飛ぶ寸前だったからだった。(もちろんこんなことは後になって分ったことだが・・・)
飛ぶ心配のなくなった社長は意気軒昂だった。
顧問のはずの僕も金を全てはき出した今は、社長にかかればただの小僧っ子だった。
「暇なら仏壇でも磨いていろ。」みたいな感じで、あごで使われていた。
とはいえ、こっちはまったくの素人だし機嫌を損ねて月100万円がパーになってはと思い気を使って事務所の掃き掃除などをしていた。
開店してまもなく社長が電話でメーカーに祭壇を発注していた。「あー、この前話した件だけど、とりあえず葬儀屋が出来る道具一式、1千万ぐらいで持ってきてよ。」なんか出前の注文を頼んでるのかと錯覚するくらい簡単に頼んでいた。僕は葬儀屋ってこんなに簡単に開けるものなのかと拍子抜けする感じだった。しかし弟は何も知らずそんな、社長を眩しそうに見上げていた。
2日ほどすると4トントラックが店の前に横ずけされた。「オウ、来た来た。これで葬儀屋出来るぞ。」
社長は喜んで積荷をのぞきこんだ。「社長、この度はどうもありがとうございました。とりあえず、祭壇3台と庭飾りや備品を取り揃えてまいりました。」メーカーの担当者もニコニコだ。「それじゃ、倉庫に運ぼう。」社長が言った。倉庫は僕の実家の納屋だ。
とにかく4トントラックからは出てくる出てくる、見たことも無い品物ばかりだ。「すごいですねー」
弟は感心しひとつひとつ手にとってはああでもないこうでもないと荷物を弄り回している。
(好奇心おおせいな奴だ。)
社長はうなずきながらあれはそこ、それはここなどと指示している。
僕はそんな社長をみて少し疑いを持ったことを恥じていた。
何となく一緒にスタートしたときから、社長という人は超楽観主義でなおかつあまり物事を深く考えない人なんじゃないかと勘ぐり始めていたからだ。
荷物を全部納めると広い納屋も一杯になった。「これ納品書です。」「おう、いくら?」
「とりあえず一千万以内で揃えてみました。」すると社長は一瞥しただけでその分厚い納品伝票にサッとサインした。(まるで電報を受け取るみたいに。)
「じゃぁ、あと7・8台祭壇持ってきてよ。」社長が軽く言うと、
「ハ、ハイ!ありがとうございます。それでは帰って至急見積もりをお送りいたします。」
担当者は何度も頭を下げて帰っていった。

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2011年10月25日 火曜日

4・やはり広がる疑問?

4・やはり広がる疑問?
メーカーが帰り道具がきてただ喜んでいるばかりの弟はほっといて、僕は社長に尋ねた。
「社長、今祭壇を7・8台って頼んでましたけど、祭壇って1台いくらぐらいするもんなんですか?」
「まあ、150万から250万ぐらいだろう。」あっさり社長は答えた。「ン?」ちょっとまてよ?
とっさに僕の頭の計算機がフル回転した。平均200万円の祭壇を8台買うと、ナナント1600万円だ。「社長さっきサインした伝票はいくらですか?」「うん?980万ぐらいだな」僕は考えた。
3000万円借りて2600万使ってしまうのはいくらすぐ仕事が来ても危険だ。
運転資金残しておくことが必要だ。
「社長、そんなに買わなきゃまずいんですか?」
「そりゃそうだろう、月10件やるには10台は必要だろう。」
「そうは言っても資金を使ってしまっては・・・・・・・」
「大丈夫だよ、あんたも心配性だな。」社長はそう言ったが次の日僕は、独断で担当者に電話した。
「もしもし、太陽葬祭の水野ですが、」「はい、毎度ありがとうございます。」
「実は昨日社長が注文しようとしていた祭壇の発注を見合わせて欲しいんですが。」
「え?発注を?」「はい。」「社長さんは?」「了解してます。とりあえず後2台は注文しますから、それで」
メーカーの担当者は2台でも注文があったのでしぶしぶ了解した。
あとで社長に勝手にそんなことをして、といやみを言われたが仕事が入ってきたら買い足せばいいと思い納得させた。
(そのときの社長は本当に仕事が殺到すると本気で思っていたのだ。当然僕と弟も・・・)

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2011年10月24日 月曜日

5・開店一ヶ月過ぎても・・・

5・開店一ヶ月過ぎても・・・
開店1ヶ月を過ぎても仕事はない。経理は社長の奥さんがやっていた。
とりあえず僕と弟は毎日会社に顔を出した。することも無いので毎日テレビばかり見ていた。
そして、1ヶ月がすぎ、2ヶ月がすぎ3ヶ月、もう季節は夏、
テレビでは夏の甲子園が始まった。この夏は生まれて初めて全試合観たのだった。
月々100万は無理だとしても毎月20万円の給料は支給されていたので仕事が来なくても僕と弟はあまり文句も言えなかったのだった。
でもやっぱり変だ。のんきな弟もさすがに「お兄さん、仕事来ませんねー」なんていい始めていた。
夏の甲子園が終わり昼間みるテレビも無いので弟とパチンコに行ったりしていたある日、パチンコから帰ると社長が言った。
「お金、終わっちゃたからまた借りてきて。」まるでジュース買うからちょっと金貸してみたいなのりで、(ン、ン何言ってるの?この人?)僕は耳を疑った。
「社長、お金ないって、本当ですか?!」
「本当だ!俺があんたに嘘をついてどうする。」いやいや、そんなとこで、威張らなくってもと突っ込みを入れる余裕など無く、僕の頭は真っ白だった。
「お金ないって言ってもいくらかはあるでしょ!」僕は社長に問いただした。
「よくワカンネーけど、女房に聞いてくれ。女房がそう言ってるから。」
この人全然資金繰りなんて考えてなかったみたいだった。
僕は奥さんから資料を引き継ぐと残高をみた。
すでに50万円を切っていた。
とりあえず今月の支払いはざっと220万円、(内訳は銀行返済が約100万、家賃光熱費が30万円、給料が70万円保険やリースが20万円)
とりあえず、170万円足りない。後数日で支払期日だ。
考えてもどうしようもない。
仕事は無い。はじめて僕の尻に火が付いた瞬間だった。
「お兄さんどうしましょう?」弟が心配そうな顔でつぶやくのも道理だった。
とりあえず、親から100万円、弟も親から100万円借りてその月はしのいだ。
こんなことは一回限りの離れ業だ。
とりあえず、弟と経営会議だ。
社長は金が借りられないと分るとすっかりひとまかせになってしまい、とりあえず好きなようにやってみろって感じだった。
会議の結論はとりあえず皆の給料を半分にすることだった。

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2011年10月23日 日曜日

6・経営が分らずにその場しのぎでしのぐ・・・

6・経営が分らずにその場しのぎでしのぐ・・・
でも、そんな、その場しのぎが経営を改善するわけも無く、朝鮮銀行の積立金を早くも途中解約して銀行返済に充てたりして行き当たりばったりの経営をしていた。
現金がすっかりなくなると夏も終わった。
そんな時妻がいった。「もう2ヶ月生活費が入ってないんだけど・・・」
資金繰りを委譲されて、毎日が追い立てられる生活だったので生活費を渡すことさえ考えてなかったのだ。そして次に僕の口をついて出た言葉は
「2ヶ月できたんならもう1ヶ月ぐらいできるだろ?」
この言葉で女房がしばらく口をきかなくなったのは今考えれば仕方が無いことだった。
しかし弟の女房はそうはいかなかった。「おにいちゃん、旦那に給料払ってよ。」妹に言われるのがつらい。ある日弟に尋ねた。「お前、給料欲しいか?」給料を出さなくなって3ヶ月目のことだ。
「ハ、ハイ、欲しいです!」「そうか、じゃ石屋に行って稼いでこい。」
僕は石屋の社長に言って弟を雇ってもらうことにしていたのだった。
石屋の社長に弟を雇ってもらいたくて電話したとき、社長は開口一番「体は?」とだけ尋ねた。
「子供相撲の横綱張ってましたから。」まえに弟が自慢していたのを思い出したのでそういったのがよかったのか即決で採用が決まった。
けれど僕は石屋の社長に、仕事が来たら現場から直行で会社に戻してもらう条件だけは飲んでもらった。
(いまは一旦野に下るとも、いざ鎌倉の心を持って日々暮らしていく気構えを忘れないことが大事だと格好よく言えばそんな感じだったが。)
ただ弟の近所の人たちは、僕たちのそんな崇高な志をしらず、地下足袋、腰弁当で出かけてゆく弟を見て単に葬儀屋をやめて日雇いになったのだろうとしか思ってなかったみたいだったが。
弟は頭を使わない石屋の仕事が性に合っていたらしく、仕事の行き返りに会社に立ち寄っては今日の現場はどうだったとか、ああだったとか報告していく。
そんな弟を僕は眩しく見上げるばかりだった。
やっぱり人間仕事もせずブラブラしてるとだんだん気持ちがすさんで来る。
時給が上がったとか、仕事の段取りを得意そうに話す弟を見ると無性に張り倒したくなるのだった。
僕と社長は相変わらず仕事が来るのをまってテレビの前で腕を組んで一日すごしていた。
(葬儀屋が腕組み商売と言われるゆえんだ。)
腕を組んだまま季節は秋になっていた。

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2011年10月22日 土曜日

7・仕事が来た!

7・仕事が来た!
また今日もいつもの一日が始まろうとしていた。
弟は石屋の給料日ということで嬉々として仕事に出かけていった。
僕と社長はおもむろにテレビの前に腰掛けて腕を組み長い一日が始まろうというその時、突然会社の電話が鳴った。
二人は聞こえない振りをしてどちらかが取るのを待った。
かかってくる電話は支払いの催促に決まっていたからだ。電話のコールは続く。しつこい電話だな・・・と、そこへ奥さんが2階から降りて来て、しょうがないねーみたいな感じで受話器を取った。
「はい・は・ハイ、おります。お待ちください。いま代わります。」「あんた、電話。」
「なんだ?!俺か!」なかなか電話に出ようとしない。
「村木さんのおばあちゃんが亡くなったんだって。」「あ!」僕と社長は飛び上がった。
「かせ!」社長は奥さんからひったくるように受話器を取った。
しばらく話した後受話器を置くと、社長は感極まったように天井をにらむと、カッと眼を見開いていった。
「仕事だ!弟を呼び戻せ!」海賊船の船長が碇を上げろ!と叫んでるみたいなのりだった。
僕も早速電話した。もちろんホットラインだ。
「社長済みませんが、弟を会社に戻してください。仕事が入ったもんで。」
仕事が入ったなんて普通だぜみたいに話したつもりだったが僕もチョッと興奮していた。
社長が再び叫んだ。「仕事だ!仕事!」
まあ,何と言っても初めての仕事だ。3月に開店しもう季節は秋、十月になっていた。
僕たちは集合した。
弟も地下足袋姿で駆けつけてきた。
二人で社長を見つめる。
社長が言った。「これから俺が打ち合わせに行ってくるから、お前たちは支度をして待ってろ。」
「・・・・・・・・」僕と弟は顔を見合わせた。
弟が口を開いた。「社、社長僕ら何をどう準備していいか分かりません。」僕らは社長の次の一言を待った。次の一言は衝撃的だった。
「俺だってそんなモン、わかんねーよ」「ン???」何言ってるの?この人。今何て言ったの?
「社、社長、僕らだって何をどうすればいいか分かりませんよ!」再び弟が叫んだ。
「社長、だって社長が指示してくれなければ、経験はあるんでしょう?」僕も尋ねた。
「んなもんねーよ。やりゃーなんとかなるべ。とりあへず行ってくるわ。」社長はいとも気楽にこう言い放つとボー然と立ち尽くす僕らを尻目にさっさと受注に出かけてしまった。
残された僕と弟・・・・・・・・「お、お兄さん」弟が途方にくれたように僕を見る。
僕もまさか葬儀屋をやるからには何らかの経験もしくはノウハウなりを持っているモンばかりと思ってたんだからのんきなものだった。
甘いぞ!・甘すぎるぞ・・・お前たち・・・・どこからか天の声が聞こえてきそうだった。
やがて我に返った僕らはとにかく、葬式の経験についてお互いの知識を検証し始めた。
実際に何か役に立つことがあるかもしれないからだった。
弟は昔おじいさんの葬式に立ち会ったことがあるといった。
それも幼稚園のころ・・・そこで分かったことは、お経が長くて弟は我慢できずに小便を漏らしてしまったということだ。
「駄目だ、お前の情報は役に立たん。」僕が切り捨てると弟はむっとしたのか僕に聞き返した。
「じゃ、お兄さんは何か経験があるんですか?」「あるさ、うちのほうは葬儀屋なんていなくっても葬式出来るんだ。隣組でほとんど用が済んじまうんだ。」「そうなんですかー、じゃ一通りの事は分かるんですね。安心しました。」
「まあ、分かるって言えば分かるんだけど。自分の担当はいつも氷屋にドライアイスを買いにいく係りだったからドライアイスを10キロかって4つに切ってもらうことだけは分かるんだけど・・・・・・・・」
「それだけですか?」弟は泣きそうになった。
(僕もあんまり人のことは言えた義理ではなかった。)
「でも、社長もあんまりですよね、あれだけ僕らを煽っておいてこんな会社まで作っちゃって、ほんとにもう。」弟はやり切れないという感じでつぶやいた。
「おお、こっちだって奴が素人だなんて思いもしなかったよ!」僕らは社長の悪口を言って自分たちの事を弁護するのに終始していた。
そんなことを言ってる自分たちこそこの半年何をしていたんだ、という反省などはもちろんしない。
そんな不毛な時間の後、二人は一つの結論に達していた。
「投げちゃいましょうか。」弟が言った。
もちろん僕に異論のあるはずもなかった。
投げるというのは仕事をやって貰える人に代行委託するということだ。
二人には、ある心当たりがあった。
二人には何ヶ月か前、例の祭壇を売りつけたメーカーの担当者にあるお願いをしたことがあったのだ。
それは自分たちは素人なので是非専門の業者さんを紹介してください、ということだった。
何も知らない素人相手においしい仕事をした引け目かその担当者は隣の隣の町の葬儀屋さんを紹介してくれたことがあったのだ。
もちろん隣の隣というのには訳がある。
つまり競合する地域の葬儀屋なんかに紹介などしようものなら、当然商売の為とはいえ、よけいな商売がたきをふやしおって!ということになりお前のとことはもう付き合わん!となるのがオチだからだ。
そのメーカーの担当者が紹介してくれた葬儀社はセレモニー天国の菊間社長だった。とても腰の低い社長で僕らの訪問を喜んでくれたのだった。
「お兄さんよかったですね、いい人を紹介してもらって。」「ああ、1500万も買ったんだ。ばちはアタラネーよ。」僕と担当者はあんまり仲良くはなかった。
目を離すとすぐ社長に祭壇を売り込もうとするから僕が牽制していたからだった。そんな経緯があって早速僕と弟はセレモニーの社長に連絡をとってみることにした。
「お兄さん、社長の電話分かります?」「おう、こんなこともあろうかと名刺を財布に入れてあるよ。」
たまたま入れっぱなしになっていたのだったが、少しは兄らしさを出そうと思ってそう言ったのだが。
「さすがーお兄さんですね。」単純な弟は感心している。
「トゥルルル・・・ハイ、セレモニー天国です。」
電話はすぐに通じた。「あのー以前お邪魔しました太陽葬祭の水野ですが。メーカーの柴田さんに紹介された。」
「ハイ、よく覚えてますよ、新しく始めた・・」「そう、そうです・・・、それで今日はお願いがあって電話したんですが。」
「はい?どのような?」
「実は、さっき仕事が入ったんですが」
「え?よかったですね。」社長は何のことか分からないらしい。
「それで、実は誰も仕事のやり方をしらないモンで、社長に今回受けていただけないかと」
「あ?そうなんですかぁ、もし私で力になれるならばご協力いたしますよ。」社長は快く言ってくれた。
「今社長が打ち合わせにいってるんで、帰ってきたらまた電話させていただきます。ほんとにありがとうございます。」僕と弟は電話口で頭を下げた。
(地獄で仏とはこのことだ。)僕と弟は顔を見合わせるとやっと人心地がついたのでフーっとため息をついた。
「お兄さん、これで、安心ですね、」弟は頬っぺたを真っ赤にして喜んでいる。
お昼近くになって社長が戻ってきた。
固唾を呑んで社長の第一声を待つ。
そこで出た社長の一声は「腹減った。出前でもとるべ。」だった。
「エ?」あっけにとられる僕らに続けて社長は言った。
「仕事が入ったんだ!しみったれてたんじゃいい仕事はできねーよ。」いきなりの強気発言。(職人かあんたは?なんて突っ込みたくなる。)
「出前はいいんですが、仕事を手伝ってもらったほうがいいと思って実は応援を頼んだんですが。」
僕が言うと、
「何?応援?」強気の社長の姿勢は崩れない。
「いやあ、僕ら初めてで、何かオチでもあると・・何しろ初めての仕事なんですから。念には念を入れてというか・・」僕は出来るだけ社長の機嫌を損ねないように言ってみた。
(何しろ今回は社長のとってきた仕事なんだから。)
しかし以外にも「そんなら、そうすベーか」あっさり社長も同意した。(本当は自信が無かったのかもしれなかった。)
とにかく当社開店第一号だ。さっそくセレモニー天国の社長に連絡を取って、日程に合わせてこちらに来て陣頭指揮をとってもらうことにした。
そんなこんなで一回目の仕事は無事終了した。
一回目の仕事が終わると僕と弟の心にある思いが湧いてきた。
それは勉強しなきゃってことだ。とにかく現場でのセレモニー天国の社長の仕事振りは見事の一言だった。
どんな質問にも的確に答え、メーカーから訳も分からず仕入れた祭壇や備品をてきぱきとトラックに積み込んで、喪家の部屋に立派な祭壇を飾りつけたときはほとんど感動ものだった。
「スゲー!」これが僕と弟の感想だった。
社長は鼻高々だ。(といってもうちの社長だけど。)
現場でセレモニーの社長は黒子に徹していたので、調子に乗ったうちの社長はセレモニーの社長を従業員のごとくあごで使ったりしていた。
僕らはひやひやして見ていたが、セレモニーの社長はいやな顔一つせずに淡々と仕事を遂行していった。
僕と弟はそんな社長の仕事振りと人柄に心底感激して、大ファンになってしまった。
仕事が終わって二人でしみじみ話したとき、僕らの結論は
「ぼくたちもあんな葬儀のプロになりてー!」だった。
それから二人は打ち合わせをして社長に電話した。
「もしもし、この間は本当にお世話になりました、ろくなお礼も出来ずに、お言葉に甘えてしまって。それでまたお願い事で恐縮なんですが、是非弟子入りさせていただきたいんですが、もちろんお金は要りません。仕事が入ったときにお手伝いさせていただきたいんです。仕事を覚えたいんです。」
戸惑いながらも社長は僕らの弟子入りを許してくれた。きっと忍びなかったんだと思う。

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2011年10月21日 金曜日

8・弟子入り修行

8・弟子入り修行
セレモニー天国の社長に惚れ込んだ僕ら二人は、社長を師匠として葬儀のイロハから、覚えていった。
仕事が入ると社長が連絡をくれる。僕と弟は早速社長の事務所に向かう。約1時間の行程だ。
社長自身、大手の葬儀社の部長までやった、生え抜きの叩き上げでその町の業者の誰もが一目おく葬儀の生き字引みたいな人だったのだ。
社長は大手の葬儀社を思うところあって退職し、独立してまだ数年しかたってなくて、よけい僕らに親近感を持ってくれたようだった。
花輪の出し方から、祭壇の組み立て方、お供物の種類、葬具の名前や使い方、それこそありとあらゆる事を教えてもらったといっても過言ではなかった。
社長に葬儀のイロハを教わりつつも会社の仕事はあれ以来ない。
当初計画していた、経営計画は挫折し、資金は底をつき年末には親に頼んで数百万円を用立ててもらいしのいでいた。
新年になっても仕事が無くかろうじてもともとの仏壇の売り上げが唯一の収入源だった。
社長は相変わらずテレビの前で一日過ごしていた。
けれど僕と弟は仕事を覚えることで毎日が充実していた。
でもセレモニーの方もそんなに仕事がある訳でもなく呼ばれていくのも月の内数日だった。
あとの日弟は相変わらず石屋に働きにいき、僕は社長と日がな一日テレビの前に座っていたのだ。
ただ、以前と違うことは仕事が来ればやれるっていう自信がついたことだった。
会社の決算は3月だ。決算書を会計士にもらって説明を受ける。
当然赤字決算だ。
最初の3000万円はすっかり無くなって親から後600万円借りてしのいでいたので普通で言えば万歳しなければならなかった。
そんな時国民金融公庫という銀行がお金を貸してくれると聞いて、相談会に行った
担当の人はいい人だった。「個人的には、とても同情しますし、お貸ししたいんですが、一円でも黒字になってれば、いいんですが・・・」どうも駄目そうだった。
そんなある日、会社にある銀行員が営業で新規開拓に飛び込みで尋ねてきた。
「ご融資させてください。」その若い営業は僕らに向かってそう言った。
(当然僕らは、お茶やコーヒーを出してもてなした)
僕は翌日その銀行を訪ねた。
若い営業はちょっとビックリしたようだったが、僕を受付に通すと上司に取り次いだ。
決算書も出来ていたので書類に不備は無い。
その営業から取り次がれた上司は僕の資料をしばらく見ていたが、やがてきっぱりと、こう言った。
「お貸しできません!」取り付く島も無いとはこのことだった。
「そんな、お宅の営業の方から借りてくれって・・・・」僕はねばった。(若い営業はどこかに隠れてしまっていた。)
「うちの営業がそう言ったかも知れませんが、書類を検討しなければ融資はできませんので、」
「でも、資金繰りに困ってこうしてたずねてきているんです。銀行はこうした企業に融資して企業の育成を図るべきものなんじゃないですか?」僕も少し経営者っぽく意見など言ってみた。
すると、その上司は驚くべき一言を吐いた。(あとで、いろんな人に話しても誰も信じてくれなかったが、この一言だけはほんとだった。)
「でも、御社の場合、この融資が、カンフル剤になるより安楽死になってしまいますから。」
その上司は顔色も変えずに言った。
内心僕は面白すぎるぜこのヤロー、とその銀縁めがねに突っ込みを入れたかったが、とてもそんな雰囲気ではなかった。
せめて心の中で「オメーのとこには、金輪際貯金してやんねーよ」と悪態つくのが関の山だった。
(でも、むこうからも金輪際来てくれるななんてオーラが出てたのであきらかにこちらの負けだった。)
資金繰りに詰まった僕はとりあえず、月末の手形の50万円の決済が出来ないことを悩んでいた。
だめもとで社長に相談した。
「社長、仕入れの手形が不渡りになりそうなんですけど・・・・」「いくら?」「50万です。」
「カッチャンのとこけ?」(なんか社長は変な訛りがあるのだった。)
「よくわかんないけど、いつも仏壇持ってきてくれる。」
「おお、なら、ジャンプしてもらえ。」「ジャンプ?」(少年ジャンプ?ッてわけ無いか。)
「1ヶ月延ばしてもらうんだべ、支払いを」「そんなことできるんですか?・・・」社長は、なにげなく受話器を取り上げると仕入先に電話した。
「あ、カッちゃん、Kだけど、悪いんだけどサー、うちの手形ジャンプしといてくれる?うん、来月には入金しとくから・・うん、悪いね、いつも」
そういって、社長は受話器を置くとまた、何事も無かったかのように、テレビを見始めた。
テレビからは笑点のテーマソングが流れていた。
チャンチャカ、スチャラカ、スッテンッテン。チャンチャカ、スチャラカ、スッテンッテン。
社長は嬉しそうに目を細めてテレビに見入っていた。
とにかく不渡りの危機は1ヶ月先延ばしになった。
それでも僕もなんとなく安心した。けれど、お金は無いままだ。
無い袖は振れない、という諺をつぶやいた僕に突然ある考えが閃いた。
つまり、支払いを出来るだけ先延ばしにする方法だ。
今までは支払いはあるだけ即金で支払ってきた。けれど、支払いをぎりぎりまで延ばす戦法だ。
仕事は現金で徴収して(葬儀や仏壇は当然現金で集金できた。)仕入れの支払いを延ばす。
当時のうちを知っている業者は、苦々しくこう言うだろう。
「あの会社から金を集金できたら一人前だ。」
やりすぎると仕入れも出来なくなる危険なやり方だが、このやり方しかなかったのだ。
このおかげで金を返さない人や取立ての心理が手に取るように分かるようになった。
まず「入金が無いんですけど、」と期日が過ぎると何社かが言ってくる。そうしたら、まず明るくはきはきと「すみません、明日すぐ入金します。」と言わなければならない。
集金の催促はする方も気が重いのだ。
そこで、はっきりと明るく、そして明日、この3拍子そろった答えを聞いて満足しない人は無いだろう。
借金慣れしていない人ほどおどおどして、返せないのを察知されてしまい不信感を抱かせるのだ。
文書でくる入金がございませんでしたにも、かならず入れ違いにご入金のせつはお詫びいたします、なんて書いているぐらいだ。(もっともお金を払わずにいると、その後には督促状といって人間性のかけらも感じられない極めて冷酷無比な書類が送られてきてしまうのだが・・・・・)
明日払いますと言われ、本当に次の日入金を確認して「まだ入金されてませんけど・・」なんていってくるのは、サラ金か自分も飛びそうな人間だけだ。
たいていは2・3日様子を見る。そしておもむろにまた電話してくる。(つまり、格好をつけるのだ。)
「先日、ご入金とのご返事でしたが、まだ入金がなされてないようですが・・」なんて当たり障りの無い電話のしかたをしてくるのは、悪いけど3ヶ月は楽勝で延ばしていた。
「お前のせいで不渡りだ!バカヤロー!」なんて1万円ぐらいで言ってくるのは本当にそうなりそうな奴なので何としても払ってやらないと一家心中なんてして遺書にうちの名前を書いてしまうので最優先だ。
一回社長が何気なくとってしまった業界紙を2年ほど、ほったらかしに来るに任せていたら、ついに取立てのプロが新宿からやってきた。
十数万円の取立てだったけれど、ようやく2度は帰したけどさすがに3度目はなかった。
ドラマでしか見たことが無かった「ガキの使いじゃネエーんだ!」というセリフがそいつの口から出たのでさすがに僕らもゲームセットだった。
やっぱりプロに3回目はないということも一つの目安だった。
けれど、少しずつだが仕事も入り始め、このはた迷惑な戦法で超低空飛行を続けていたある日不思議な出来事があった。
ある家の葬儀の依頼を受け祭壇の設営・飾りつけも終わりあとは通夜の開式までの時間を弟といつもの金策会話で過ごしているときのことだ。
「お兄さん、月末の手形落ちますか?30万」「いやオチネーな、」「この現場終わればお金は入るのに、間に合いませんねー」「そうだなー・明日までに何とかしなきゃナ」「どこに借りにいくか?」もう親戚は借り尽くしていた。そんな会話をしていると、突然その家の施主が出てきた。
おんぼろの家で当時30万円葬儀の太陽葬祭なんて売り出していたので、少しずつ安い仕事が入ってき始めたとこだったのだ。
その施主は「おい、あんたら親切に色々やってくれてるんで、身内のモンも皆喜んでいる。ついては俺としちゃ、もう金を少しばかり用意しちまってるんだ。持っててなくなってもなんだし、とりあえず先払いしておこうと思うんだが。30万ここにある、不足は葬式終わって払うから、とりあへずとといてくれ。」「???」僕と弟は何がなんだか分からなかったが、こんな渡りに船の話断る訳も無くありがたく受け取った。
施主が行ってしまうと、「お兄さん、奇跡が起きましたね。」弟が言った。
「ああ・・・・不思議なこともあるもんだな」僕も半信半疑だ。「これで、手形落ちますね。」
「おお、銀行間に合うかな?ちょっといってくる。」僕は銀行に走った。
葬式の後、その家はおばあさんが亡くなって今は誰も住んでいなかった。
けれど仕事の行きかえりの通り沿いなのでいつも車で通りかかると、あの親切な施主のことを思い出しては感謝していた。
と、その時、はっと気がついた。初めてあのからくりが分かったのだ。
つまり僕と弟が借金や手形のことを話していた場所は、幕を張っていたのでそのときは気がつかなかったが今、改めて見ると弟と座っていた場所の後ろがすぐその家の居間だったのだ。
それも窓際に腰掛けて話していたのだったから僕らの会話は全てあの家族や親戚に筒抜けだったのだ。
そのことが分かった瞬間恥ずかしさで一杯になったが、それと同時にさも自分から言い出したようにお金を渡してくれたあのおじさんに心底、感謝の気持ちが湧いてきた。
こんな風に人の恩を受けながらも仕入先に迷惑をかけ続けて会社は2年目に入っていった。

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2011年10月20日 木曜日

9・そして平穏な日々

9・そして平穏な日々
2年目に入るとそれでも少しづつ仕事が入り始めた。と言っても月に1件のペースだが・・・・
弟は相変わらず地下足袋を履き石屋にバイトに行く。
「お兄さん、今度石積みさせてもらえることになったんです。」弟は葬儀屋というより石屋になりつつあった。顔は日に焼け、筋肉もつき大柄な体が一段と逞しくなってきた。
僕と社長は相変わらず日がな一日、腕組みをして事務所に座っているので、青白いかといえば青白いのは僕だけで社長は当時50代後半で色は浅黒く生き死にの大病から生還したとのことで体重は50キロそこそこだったが、ものすごくバイタリティーに溢れていた。髪はいつもポマードできっちり決め、いつもピカピカの靴を履いていた。
口癖は「俺が今根回ししてるから、それが動き出したらものすごいことになるから。」と言うものだった。僕も弟もそのものすごいことって何だ?というのが最大の疑問だった。
でもある日ものすごいことの一つが僕らを直撃した。
久しぶりの仕事を終えて、会社には寄らずに直接自宅の納屋に荷物を片付けに向かっていると突然僕の携帯が鳴った。
「はい、水野ですが。」「こちら、○○銀行ですが、御社振り出しの手形が本日回ってまいりましたが、残高不足で、このままでは不渡りになってしまいますので至急ご入金ください。裏のドアからお入りください。手形は60万です。後30分以内にお越しください。」
「ちょっと待ってください。手形は振り出してませんが。」「いや、そんなこと無いです!ただお宅の社長に電話をしても通じないんですよ!とにかく大至急お願いします!」
ガチャン!!電話は切れた。
僕は何がなんだか分からなかったが、とにかく金が60万円要るということ。不渡りまで後30分ということ。それだけしか分からなかった。
今経理は自分が握っているので手形のことも把握してるはずだったのだ。
今悩んでもしょうがないで、ちょうど仕事を終えたばかりだったので、葬儀代こそ集金してなかったのだが供物代の集金が20万はあったのであと口座に30万円は入っているはずだった。
とにかくトラックをUターンさせると銀行に向かった。
銀行のシャッターは下りていたがいわれた通り裏のドアからインターフォンで来たことを告げると、鍵が開いて中に招き入れられた。
一歩中に入ると一斉に行員が僕の方を見た。こいつのために閉められないんだみたいな視線だった。
こっちも何で閉店後にこんなに居るんだって感じだったが、実際はどうもすみませーんみたいな感じで中に入っていったのだが。するとそこには仁王立ちしている担当者がいた。
「ホント困りますね。連絡も取れずにこんな時間まで、もうちょっとで不渡りですよ!」担当者は興奮していた。
「今ここに25万ほどあります。あと30万ほど普通口座にあるはずです。」「分かってます、後5万円足りませんね。お宅持ってます?」「あると思いますけど」「すぐおろしてください」まるで命令調だ。
僕はキャッシュコーナーに案内され自分の口座から5万円をおろした。
残高は数百円だ。(けつの毛まで抜かれるって言うのはこんなことかな?などと思うと昔の人はうまいこと言うなとちょっと感心した。)僕がお金を差し出すと同時にひったくるように受け取ると、そいつは数え始めた。
ひぃ・ふぅ・みぃ見たいな感じで数えている。銀行員の癖に扇子みたいに開いて数えるのかと思ったのでちょっと拍子抜けした気分だった。(こいつ素人だな。)
かぞえ終わるとそいつは言った。「1万多いです。」合計で61万円あったのだ。
1万円を返された僕はなんとなく得した気分だった。
「それじゃ、入金伝票かいてください60万円」
入金伝票を書き終わるとそいつは「気をつけてくださいよ、今後こんなことの無いように!」と言い捨てるとカウンターの中に入っていった。
「あのー手形は?」僕が尋ねるとそいつは忌々しそうに「これです。」といって一枚の手形を僕に見せてくれた。
確かに社長の名前が書いてあったが、社印が押してなく社長の個人名の手形だった。
社長の名前が書いてある以上こいつと話してこれ以上ややこしくなるよりとにかく社長から話を聞くことが先決だと思いその場は聞き耳を立てている行員たちにわざと聞こえるように「どうもすみませんでした。」といって又裏口から外に出た。
とにかく社長を捕まえなきゃ、僕はとりあえず会社に戻った。
会社の入り口を入ると、そこには何と社長が普段と同じにテレビの前に座っているではないか。
「社、社長!店に居たんですか?今銀行にいってきましたよ。どういうことなんですか?60万の手形が回ってきましたよ」
「ああ、悪い、悪い、金が都合つかなっくってさー」
「払ってきましたよ、でもどういうことなんですか?手形なんてきってないはずなのに」
「まあ、俺が前に切ったのが回ってきたんだろう。」「前に?」
「そうだ、個人で仏壇屋をやってたときのやつ。」
「ほら、けんちゃんとか三好さんとかいるだろ?奴らに手形で金を借りたのよ。」
僕はけんちゃんも三好さんも知らなかったが、手形で金を借りたということは分かった。
「どういうことです?」
それは、ぞっとする話で今考えてもよくあのくらいで済んだと思うばかりだ。
つまり社長は個人の金貸しに60万円の手形を切って30万円借りたというのだった。(つまり30万円が利息ということ。)
そしてその手形には期日が入ってなかったのだ。
だから、そのけんちゃんや三好さんは自分が必要なとき、日付を入れて換金できるのだ。たまたま今回その一枚が回ってきたというのだった。
「一体何枚きったんですか?合計でいくらなんですか?」ぼくが矢継ぎ早に、問いただすと社長はサラッといった。
「何枚切ったかなんてよく覚えてねーよ、」「じゃとにかく手形帳返してくださいよ!」「終わったから捨てちゃったよう」僕が黙ったままいると責任は感じているらしく、「まあ、これからこんなことがあると困るから、俺社長降りてもいいけど、」
僕はあいた口が塞がらなかった。(いまさらふられても!)
しかし、これが紛れも無くうちの社長なのだ。こうしてわが社の平穏な日常は過ぎていった。

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2011年10月19日 水曜日

ある時出入りの生花屋さんが、祝いの花輪をやらないかと言ってきた。

ある時出入りの生花屋さんが、祝いの花輪をやらないかと言ってきた。
祝いの花輪というのは、葬式に出す花輪と対照的に赤やピンクの派手な花輪で、よくパチンコ屋さんの新装開店などにだされている。
「実はKパチンコに依然出していた花輪屋さんがあんまり数も出ないし支払いが悪くってかえって手間なので手を引きたいって言ってるんですよ。あんまりいい話ではないんだけど、少しでも仕事になればと思って・・・」
金払いが悪いなんてウチと同じだなって思うとなんだか親近感がわいてきて、取れれば儲けもんだなと思って受けることにした。
そのパチンコ店は5店舗ぐらい経営していてそんなに景気が悪そうには見えなかった。
ウチが担当するのはそのうち3店舗だった。5店舗の中では小さい方の店だったがそれでも一回に5本から10本の注文があった。一回2週間出して1万円だった。
出して片付けて1万円はおいしい仕事だった。
でもそうそう何回も出るものではなかったが・・・
ある日設営したら先に花輪代を支払ってくれて(このパチンコ屋さんは払いがよくて最初に聞いていた話と違って僕は安心した。)5本分5万円(税込み)をいただいて帰ろうとすると、弟が言った。
「お、お兄さん。今日5本で5万円の売り上げでしたよね。」
「ああ、金も先払いで今日はついてるよ」
「ついてるついでに少し売り上げを増やして帰りません?」
「売り上げを増やすって?」
「今日は新台入れ替えですよね、」弟がにやりと笑った。
「パチンコで増やすのか?」
「出ますよ、出しますよ今日は、こっちも花輪だけ出して帰るんじゃ片手落ちですよ。稼げるときに稼がなくっちゃ」
「いつもすってるのに?」
「それは私欲で打つからですよ。今日は会社のため、つまり業務の一環ですよ、1万円だけにしてどうです?」こんなときだけは妙に説得力のある弟の熱意に負けて僕らは一勝負していくことにした。
開店と同時に僕らはそれぞれ目指す台に向かった。
30分後僕と弟はさらに会社のために1万円づつつぎ込んだ。
こんなときは出ないのがパチンコの常で最後の1万円も仲良く5千円づつ打ち込んで開店から1時間後にもうトラックに戻った僕らは溜め息をついた。
「お前に乗せられて結局今日はただ働きになっちまった。」
「もうチョッとで来そうでしたけどねー」
「お前は全然反省してそうもねーな」
「そんなことないですよー」
弟は大して気にもしてない様だったし、弟に釣られた僕も悪かったのでそれ以上何もいえなかった。
僕らはその後も懲りずにパチンコ屋に花輪を出しながら帰りに売り上げた花輪代をおいて帰っていったのだった。

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2011年10月18日 火曜日

僕は弟と相談して病院に営業をかけることにした。

僕は弟と相談して病院に営業をかけることにした。
実はある仕出屋のYという男がこう持ちかけてきた。
「実はね、専務さん(え?僕って専務だったのなんて突っ込みはせずに)今度隣町に診療所が開院するんですが、いわば老人病院で回転率がすごくいいんですよ。20のベットが一年かからずに総入れ替えになるくらいなんです。そこのオープンセレモニー費用の半額を専務さんの会社で持っていただければ指定業者になれるんですよ。まあ料理をうちが持ちますからコンパニオン代ぐらいで済む話ですよ。」
(一年で20人としても月約2件の仕事か?悪くないな。)と皮算用して「で?いくらぐらいかかるの?」
「大体50万ぐらいだと思いますけど、その後仕事が取れてもキックバックしなくてもいいそうなんですよ。これはこの業界じゃ破格のいい話なんですよ。とにかくうちの料理もこれから使ってくれるということで特に専務さんにお話させていただいたんですよ。」
僕はそんなもんかなーなんて思いながら時代劇の悪代官になったような気がして思わず(おぬしも悪よのー)と心の中でつぶやいてしまったが、結局その診療所の指定業者になることにした。
無事その診療所もオープンして本当に間髪いれずに搬送の依頼が発生した。
僕たちは病院に駆けつける。指定された病室からストレッチャーに故人をのせて家まで運ぶ。
でも運んで終わりだった。
たいてい地元の葬儀屋さんに頼むからとか互助会に入っているからとかの理由で仕事にはなかなか結びつかなかった。
十件運んで一件取れればいいほうだった。
それに病院からの意向で搬送は病院のサービスということで料金はガソリン代と搬送布団代で一律五千円をいただくだけだった。
仕事は取れないが夜中にいつお呼びがかかるか分らないので僕は24時間携帯を肌身離さず持つようになった。
トイレでも風呂でも携帯を離せないのでよく水没させてしまった。
夜中に社長を呼び出したこともあったが晩酌をやってしまっていて使い物にならなかった。
そしていつ仕事が入るか分らないので僕は酒が飲めなくなってしまった。
以前は一件仕事をやってから何日も仕事が入らなかったのであんまり気にしたことがなかったけれど、今度からは責任ある立場なので大変だった。
人間の終焉とは不思議なもので病院からの電話は決まって深夜だった。夜中の2時までが要注意でその時間が過ぎれば電話のかかってくることは先ず無かった。
その晩もそろそろ2時を回ろうとしていた。
僕の携帯が鳴った。病院からだった。
僕はいつものように弟に連絡すると自宅を出た。
会社で弟と落ち合って病院に向かう。
もうベテランだ。勝手知ったる病院だが、やはり深夜の病院は何となく不気味だ。
ロビーから2階の病室にストレッチャーを運ぶ、けれどその日に限ってナースの姿も遺族もいない。
指定された病室は大部屋だ。そっとドアを開けて中にストレッチャーを入れる。
ベットが4つあってそれぞれお年寄りが休んでいた。
僕は声をひそめていった。
「どの人かな?」
弟は言った「この人ですよ。」
弟が指差したおばあちゃんは動かないし確かに逝ってるみたいだった。
でも弟にそんなことが分るはずも無いと思いもう一度息をひそめて様子を伺って見る。
なるほどと思えるふしもある。
隣で弟は「ねえそうでしょお兄さん」と得意そうだった。
「ンーそうかもなあ」僕も何となく納得してそのおばあちゃんの脇にストレッチャーを着けようとした矢先、看護婦さんが入ってきて
「アッ違う、そっちじゃない、奥の右側の方」とタイミングよく言ってくれたので僕たちは間違えずに済んだのだった。
無事おばあちゃんを送り届けた帰り道、弟が言った。
「さっきは危なかったですね。間違えて連れてっちゃったら大騒ぎですよ。」
「あたりめ~だろ、どこに生きてる人間連れてっちまう葬儀屋がいるってんだよ。」
「あはは・・・・ここに居たりして・・」
「バカヤロー」
弟は何故かツボにはまったらしく帰る道すがらずっと思い出し笑いをしていた。
深夜の国道に軽のバンタイプの搬送車が走っていたら、中では人に言えないような事が話されてるかも知れないのだ。(間違えそうになったおばあちゃんゴメンネ。長生きしてね。)

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2011年10月17日 月曜日

ぼくには、住所不定の幼なじみのSという友人がいます。リストラと立ち退き同時にあって現在、住居は車です。

ぼくには、住所不定の幼なじみのSという友人がいます。リストラと立ち退き同時にあって現在、住居は車です。
そんな彼は、行く当てもなく立ち退きのとき連れていた猫と一緒に当社の倉庫に来て(というより、居座って)
毎日を過ごしていました。
働く意志はあるけど、仕事がない、そんな彼を友人として時々祭壇の飾り付けや花輪を出すときの手伝いなどでバイトしてもらっていました。
ある日そんな彼と昼飯を一緒にと思い倉庫に行くと彼は、車の外に出てぐったりしていました。
「大丈夫か?」僕が呼びかけてもSは「ウン、アー、」と意味不明の言葉をつぶやくばかりでちょっと意識が朦朧としているようです。とにかく病院へ・・病院に着くと緊急外来へ、向かいます。いつもは寝台車で地下の入り口に向かうのですが・・・・ようやく診察の順番が来て問診を始めます。ただその若い医師は友人の風体を見回すと友人Sの現況を聞くととたんに帰ってくれオーラが充満してきました。
「とにかく、血圧も少し高いけど、見たところ大丈夫そうなので、今日は帰っていただくことになると思います。」
僕はとてもそんな状態には見えなかったので「先生!本当に具合悪いんです。」とねばってみました。
その若い医師はしぶしぶ「まあ、血液検査の結果を見て判断します。」といってちょっと不機嫌そうでした。
「先生、検査結果がでました。」ナースがカルテを持って入ってきました。
しばらく食い入るようにカルテを見ていたその医師は「うーん、今夜がやまですね。」とあっさり言ったので僕は
「っつてオイオイ!」なんて突っ込むところだった。
「腎不全末期です。もって1日でしょう。」その若い医師は駄目押しのように言いました。
「今夜はこのまま入院していただきます。」さっきは帰れって行ってたのに・・・
「身内をよんでください、明日9時にここで」僕に最後の一言を残して「それじゃっ」って帰ってしまった医者を見送りながら僕はとにかく今夜この病院に入れたことだけを感謝した。
「それじゃ、入院の準備しますのでそれまで点滴しますから・・」ナースに促されてSと僕はベットの部屋に入った。点滴してると友人の弟がかけつけてきた。「すいません。」「ああ、ビックリしただろ」
「はい。」「こんやがやまだろうって」「そうですか、こんなだとは思いませんでした。」・・・・
その後面会時間も終わり僕と友人の弟は一旦病院を後にした。「とにかく明日9時にもう一度病院で」「はい」
家に帰り今日のことをいろいろ思い浮かべてみる。結局彼の人生って一体・・・・・
小学校・中学校・一緒で大学は偶然東京で再会。吉祥寺の吉野家でバイトしていた彼、、ふっと思い出したら
急に「今死んだらだめだ!」と心の中で何かが叫びました。
いつも僕のわがままにつきあってくれたお人よしのS、彼の両親はあいついでつい最近病気でなくなりました。
二人とも僕が葬儀を施行しました。お母さんが生きてたら今の彼を見てナンテ思うのだろう。
なんとしても死なせはしない。そんなことを考えながら布団に入った。
夜中午前2時僕の携帯が鳴った。「こちら○○病院ですが、Sさんがベットからおちて意識がなくなりました。
家族に連絡がとれないので来ていただけますか?」やっぱりきたか・・・・車で30分深夜の病院に到着
集中治療室へ急ぐ「Sの友人の水野ですがSは大丈夫ですか?」集中治療室のナースに尋ねる。
「ハイ、今は安定してます。」チラッとSの様子を見せてもらってしばらく付き添っていたが何とかもちなおしたので一旦帰宅した。翌朝7時またまた携帯にTEL、Sの弟からだった。「もしもし、水野さんですか?
兄が亡くなったそうです。」弟ははっきり言った。もたなかったんだなあー。「すぐ行くから」
電話をきって家をとびだす、途中Sのことよりも葬儀のことを考えてしまう。
金がないから友人を呼んで香典を出してもらって葬儀費用の足しにしよう。携帯のメモリー入ってる幼なじみに
片っ端から電話する。

「もしもし、水野だけど今朝がたSが死んだんだよ。日程はまだだけど、頼むぜ。」僕は努めて淡々と事実だけを告げた。「なんで?マジ?ほんとか?」皆異口同音に驚いた。彼らにすればホームレスもどきのSではなく一緒に遠足に行ったSなのだから・・・
病院に到着弟と一緒に病室に向う516号室・・いない、霊安室か?まてよ集中治療室にまだいるかも・
二人で向う途中昨日の看護婦さんとすれちがう「すいませんSはどこですか?」「まだICUですけど先生とは
9時の約束では?」「ハイ、でも亡くなったという事なので」・・・「えー!亡くなってません。 誰がそんなことを?」「携帯に病院からの伝言が・・」Sの弟が確認すると看護婦さんはキッパリと「そんな電話してません。」
と断言したのであわてて、携帯の留守録を確認する弟、「○○病院ですが、ピー・・ベットからブッいしき・ポ・・
亡くなりました」どうやら僕にかかってきた電話と同じ内容だったのだけど意識がの部分だけ聴き取れなかったのだ。きつねにつままれたような感じでICUにいれてもらいSと対面「おい、S大丈夫か?」「おお・太郎ちゃん。大丈夫だよ。」「オメーな、・・・・・・・・・・」何もいえなくなってしまう。
お人よしのSは人の気も知らず大きなあくびをした。そして人工透析を受け始めたSは病院の治療と適正な食事で以前は100キロ以上あった体重も80キロまで節制し減量に成功して、現在は週3回の透析に通っていますが生来の明るさと楽天的な性格なのかそれらの出来事をかえって面白おかしくネタとして話してはみんなに受けていた。特に
僕とSの弟が死んだと思って病院へ駆けつけたことなどは透析に通ってる先の病院のナースにはとても受けたらしく「すげー受けたよ、死んだと思ってお前が霊柩車で病院に駆けつけたとこなんかが、一番受けたよ。」なんて話をチョッと変えて面白くしてしまっていた。本当のことを言うと霊柩車で駆けつけたりはしなかったけど、たしかに会社に電話して、よんだら寝台車で迎えに来るように手配はしていたので、あんまりおこることもできなかったのだ。
その後はSの住むアパートも見つかって猫も無断で飼っています。また1級障害者ということで障害者年金が出る予定です。本人はいたってのんきで障害者手帳を見せびらかしながら鉄道や高速が割引になるんだぜ、なんて自慢していました。でも一番困るのは兄思いの弟が心配してそれからは生活費を心配してお金を持ってくるのに甘えて働こうとはしないのです。それどころか弟がお金やいろいろなものを差し入れるのをいいことに、いちいち文句を言ってわがままし放題になってしまい弟も「あの時、死なせちゃえばよかったですかねー?」なんて時々半分冗談で言ってましたが、本人はそんなことお構いなしに平然として暮らしているので僕も弟も溜め息つくだけでした。

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2011年10月16日 日曜日

 開店して4年目にはじめて黒字になった。

 開店して4年目にはじめて黒字になった。
社長も入れて3人で月十件の施行をこなすようになった。
1件に3日かかるとするとほぼ毎日働いているのだ。
夜中の搬送があったり通夜が終わってから次の日の支度で深夜に及ぶこともままあった。
また葬儀に限っては順番で来ることなんて無いので重なることも多く結局社長と弟で一現場、僕は一人で別の現場をやらなくってはならないこともあり、そんなときは精神的にも体力的にも限界で、飾り付けが間に合わない夢をみてうなされたりした。
弟も「こんなに働いたら死んじゃいますね。」「そうだな、これ以上は仕事が来ても限界だな。」
二人とも疲れ果てていた。
けれど3年で作った借金をこれから返していかなければならなかった。
そんな時日本最大の団体つまり農協が葬式を始めたいとの話しが入ってきた。
そして、その設立に協力して欲しいとの事だった。
老舗の葬儀社や大手互助会などは当然参入阻止の姿勢だった。
けれど僕は全国的に農協が葬儀部門を立ち上げてきていることや、急激にそのシェアを伸ばしていることなどを知っていたので、本当はこれから利益が出てくるはずだったが競合して淘汰されるのが容易に想像できた。
時代の流れということもあって弟と相談した。
「お前、農協に行く気があるのか?」僕は尋ねた。
「お、お兄さんは?」
「ウーン、このままじゃジリ貧だし、これからは式場の時代だから隣町の農協の地域外でセレモニーホールでも立ち上げようと思ってるよ。」
「ホールなんて危険すぎますよ!また借金地獄ですよ。」
「乗りかかった船だからしかたねーよ」
僕らはそんな会話を交わした後、正式に弟は農協の葬祭部に就職することになった。
農協にいけば給料も確実に貰えるだろうし、妹の生活を考えてもベストな選択だと思った。
一方社長はといえば、仕事が軌道に乗ってきたのは全て自分の営業の結果だと豪語していたので、僕らに搾取されてるので給料が少ないと周囲に不満を漏らし始めていた。
そんな状態だったので各自がそれぞれ独立することに対しむしろ歓迎の様子だった。
僕と社長は残った借金をどうするかを話し合った。
まだ借金は2千万残っていた。月百万円の返済で3年で本来は2000万円ぐらい返済してるはずだったが。返しながら借りつづけていたのであんまり減っていなかったのだ。
社長はいった。「俺も男だ。月々相応の金は入れてやる!」
もちろん1円も返済してはもらえなかったが。
こうして僕らはそれぞれの道を歩き始めた。
葬儀屋を始めて5年目の再出発だった。

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2011年10月15日 土曜日

社長の葬式

社長の葬式
 それぞれのときが流れその後十年の月日が流れたある日、社長の娘さんから電話が入った。随分久しぶりだった。
「もしもし、水野さんですか?ご無沙汰してます。」「あ、けいこちゃん?元気?どうしたの?」
「実は父が入院してて、お医者さんから、心の準備をしておく様に言われたんです。」「いつから入院してたの?昔手ジ術したのとなんか関係あるの?」「関係は無いみたいです。癌なんです」「そうなんだ、今はどんな感じ?」
「意識もしっかりしているし痛みもあんまり無いみたいで、助かっているんですけど。」
「分った、万一のときは心配しないでいいから、治療に専念してね」「はい分りました。ありがとうございます。」
、きっと社長のことだから意地を張ってるんだと思うとお見舞いに行くのもどうかななどと思って数日を過ごすのもつかの間社長の訃報が届いた。
「先ほど父が亡くなりました。」「うん、分った、待っててね、今から迎えにいくから・・」
僕は会社の寝台車に乗り込むと夕暮れの町に車を走らせた。病院に着くと二人の娘さんが付き添っていた。社長を乗せ妹さんの方が寝台車に乗ってお姉ちゃんは自分の車で家に向かう。
アパートの自宅に戻ると僕等3人で社長を布団に寝かせて、スーツに着替えさせた。社長の宗派は白の装束を使わずにスーツを着せることが多い。すっかり衣装を調えると同じ宗派の人たちや近所の人たちがお参りに来た。
僕はおまいりの人たちがひと段落着くのを待って日程を打ち合わせた。社長は万が一のことがあったら公営の式場を借りて葬儀をするようにと言い残していたので意向に沿って式場を予約して日程を確定して家を後にした。
家を出るとすぐに弟に電話した。「あ、お兄さんどうしました?」「さっき社長が亡くなって日程決めたから、知らせようと思って・・」「え?社長が?・・・そうなんですか・・・」弟も何か思うところがあったのだろうしばらく沈黙の後「分かりました、仕事は全部キャンセルして手伝いますから」「頼むぜ、部長さん」弟はいつの間にか部長になっていた。


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2011年10月14日 金曜日

あれから十年、社長は当社の共済に加入していたので五十万年の葬儀費用が出ることになっているのでお金の負担を娘さんにかけることはなかった。うちの会社は今でも三十万円葬儀が健在だったから十分まかなえた。

あれから十年、社長は当社の共済に加入していたので五十万年の葬儀費用が出ることになっているのでお金の負担を娘さんにかけることはなかった。うちの会社は今でも三十万円葬儀が健在だったから十分まかなえた。
僕は倉庫にもう使わなくなったが、開業のときに社長が注文した立派な祭壇が処分せずに残っているのを思い出した。
その祭壇は重く立派なものだったが持ち運びが大変なので最近は使っていなかった。とは言え捨てるのも忍びなくて保管していたのだった。その晩倉庫の一番奥にあるその祭壇を引っ張り出して見た。箱には埃が積もっていたが、箱の中は昔のままで、十分使えたし、今のチャチな祭壇より重厚でおごそかなものだった。
式の当日古い祭壇をうちのスタッフと弟と僕で飾りつけた。「懐かしいですね」弟も感慨ひとしおだった。すっかり祭壇を飾り付けて準備が整うと僕は社長を迎えに自宅にむかった。社長を棺に納め娘さんを乗せて寝台車で式場に戻ると祭壇の前に柩を安置した。弟は柩の窓から社長の顔を覗き込んだ。「全然変わってないですね。色艶もいいし、信じられないですね。」通夜開式時刻の一時間前からぞくぞくと弔問客がやってきた。今ではあまりあう機会も無い社長の友人たち、そして同じ宗派の人たちが次々に弔問に来てくれた。僕は皆に頭を下げていた。(なんか施主になったような気分だ。)
もしかすると、けんちゃんも、三好さんもこの中に居るかもしれなかった。僕は社長があれだけ好き勝手に生きてきてこれだけの人たちがお参りに来るってことは結局社長って人は憎めない人だったってことだ。
社長も言いたいこともあっただろうし、僕らも生意気盛りだった。いろんな事をしみじみと思い返していた。
そんな思いもすべて飲み込んでお通夜と翌日の告別式が盛大のうちに粛々と執り行われた。
弔辞の中で社長の古くからの友人のTさんが古い祭壇をわざわざ飾ったことを大変喜んでくれて、僕と弟が葬儀を仕切ってくれたといって感謝してくれたことが僕らにとっては何よりだった。
「俺が今根回ししているから、それが動き出したらすごいことになるから」社長の口癖だったが僕も弟も全くのしろうとで入って何とかこの業界で食べてこられたことこそすごいことだったと思った。皆のお別れが済んで、出棺の時刻だ。
柩の中の社長に感謝して花を手向けて柩のふたを閉めると僕と弟は柩の乗ったストレッチャーをゆっくりと押しはじめた。

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